自分との戦い

この週末は久しぶりに師匠アーサーホーランドと共に行動した。

お会いする度に、新たな気づきと元気をいただく、まさに最高のモティベイターである。

そんな師匠がその講演の中で必ずと言っていい程に引用するネイティブインデアンの祈りがある。

こんな祈りである。

「おお、大いなる精霊よ、その声を、私は風の中に聞き、その息吹は、この世界のすべてにいのちを与える、

大いなる精霊よ、私の祈りをおきき下さい。

私はあなたのまえに一人の人間として、あなたの多くの子供たちの一人として立っています。

私は小さく弱い。私にはあなたの強さと知恵が必要です。

どうか私を美の中にあゆましめ、赤々と焼ける夕空をいつまでも見守らせてください。

私の手が、あなたの創ったすべてのものを大切にし、私の耳が、あなたの声をききもらさぬようにさせて下さい。

あなたが私たちにお教えになったことども、一枚の木の葉、一つの岩の下にもあなたがそっとひめた教訓の数々を

知ることができるように、私を賢明にして下さい。

おお、私の創造者よ、私は強くありたい。

私の仲間にうちかつためにではなく、私の最大の敵、私自身とたたかうことができるように。

汚れのない手と、まっすぐなまなざしをもっていつでもあなたのみもとに行くことが出来るように、

やがて、私のいのちがあの夕焼けの空の色のように消えるとき、私のたましいが、なんの恥じ入るところもなく、

あなたのみもとに行くことが出来るようにさせて下さい。」

何度聞いても魂が揺さぶられる。

今回は特に、「おお、私の創造者よ、私は強くありたい。私の仲間にうちかつためにではなく、私の最大の敵、

私自身とたたかうことができるように。」という祈りに心と魂が捉えられた。

私も幼い時から、「強くありたい」と思い続けて来た。

そして、何人かの本当の強さを持つ方々に出会ってきた。

強さを求めて空手道の稽古と修行に励んだ。まさに誰にも負けないぐらい稽古とトレーニングに励んだ。

結果、学生日本一のメンバーにもなれた。拓殖大学体育会の頂点であり最強の象徴である「無く子も黙る拓大体育

寮寮長」にも抜擢された。

周りの評価は「強い人」というものになった。

その後社会人としても、ある組織のリーダーたちの会議で一番新参者で一番若い私が、お偉い方々のゴマスリ体質と

妥協していることを指摘したことに対して、ある先輩が「あなたの心臓には毛が生えているのか?」と良く意味の分から

ない事を言われた。

しかし、今自分の47年の生涯を振り返るとき「私自身と戦うことができるように」ではなかった様に思えた。

多くの場合、自分でも気づいていない自信の無さ、セルフイメージの低さからくる「人からの評価を得る」ための

戦いであったように思う。

幸い、そのような戦いの中で得て来たものが、すべて無くなるように思えた出来事が2年前に起きた。

その痛みはあまりにも大きく今も傷口が癒えていないように思う。ここがウジウジ君の要因。

だがハッキリしている事は、「私自身と戦うことができるように」神がよけいなものを強制的に取り除いてくれた

と言う事だ。それに気づくのに随分時間がかかったが、今はそう思える。ゆえに感謝!

これからはネイティブインデアンの祈りのように祈って歩んでいきたいものだ。創造主のもとに帰るまで。

過去と他人は変えられないから・・・・・・。

あなたの戦いはどんな感じですか?

人間らしいブランディング

最近、巷ではパーソナルブランディングなるものが、注目されている。

私が自分自身のブランディングを考えるとき、<自分らしさ>の前に<人間らしさ>を考える!

ここを飛び越えて<自分らしさ>を考え始めると、ゴルフクラブとしてゴルフを楽しむ為に作られたものが、誰

かを殺める道具として使われてしまうような事になりかねない。

人は限りなく自己中心的にものを考えやすいので、<自分らしさ>という事でさえも、人間としての<本来のあ

り方>や<本質>から外れると変な事が起こってしまう。

私もそんな過ちを数多く犯してきた者の一人である。

だからこそ、<自分らしさ>の前に<人間らしさ>を確認したい!追求したい!

あなたは人間が他の生き物と違っている<人間らしさ>とは何だと考えますか?

或は、他の動物と比較しなくても、本質的に人間が人間である<らしさ>特長、役割、存在価値をどのように考えますか?

なんだか哲学的になってしまいそうですが、そんな暇はない!

余談だが哲学は、暇を持て余していた貴族層から生まれたという説がある。

そう言えばうちのおかんは、良く「そんな難しい事考えている暇はないわ!毎日食っていく事で精一杯や!」と言っていた。忙しくて更年期にもならなかったそうだ!大阪のおかん恐るべし!

話しは戻りますが、私は人間らしさの一つをバイブルの言葉から見出した。

バイブルには、人は「地の塩」「世の光」であると教えている。

塩も光も、そのものだけではあまり価値が見出しにくい、塩だけを食べる事はあまりない。

塩は、肉(料理)にとけ込む事によって肉の旨味が増し、塩の存在価値が増す。また腐敗も防ぐ!

光も、何かを照らしてこそ役に立つ。光だけを見ると目がやられる。

強ければ強いほど害を与える。闇の中でこそ光は最大限の役割を果たす。

これらの事から<人間らしさ>とは、自分の存在や関わり方で誰か(他者)を生かす事にあると捉えている。

牧師時代は、この社会の腐敗を防ぐことの役割に偏りすぎて、批判的にものを考える傾向が強く、評論家のよう

であった。嫌な奴!

しかし、もう一度<人間らしさ>を塩の役割で見つめ直した時、誰かを批判的に見る様な<人間らしさ>では

なく、その人の旨味を最大限に引き立たせる<人間らしさ>をかもし出すような存在でありたいと願うように

なった。

そして、この<人間らしさ>を土台として、私固有の<自分らしさ>を見出し、磨きをかけていきたい!

これが<私らしい>ブランディングである。

あなたも人間らしい<自分らしさ>を発見して下さい。

薪(たきぎ)のような人生

「たき火」が大好きだ!

幼いとき、海辺の砂浜で流木を集めて燃やした。火を見ているだけで何とも言えない心地よさを覚えた。鍵っ子で家に帰っても誰もいない寂しさを「たき火」で癒していたのだろうか?

学生時代、キャンプファイヤーをやる時は決まって火を扱う担当になっていた。

神学校で学んでいたとき、敷地内の雑草や木を燃やす作業があった。たき火を超えて、ものすごい大きな火になった。先輩に「都会の人はこれだから困る!」と白い目で見られた。

三田に住んで5年前に今の場所に移った!

田舎なのでいくらでも「たき火」ができる。庭の木を剪定して「たき火」

ちょっと疲れが溜まると枯れ枝を集めて「たき火」これが今の私のお金が掛からない贅沢な一時である。

先日出会ったコンサルタントの方は、将来「たき火屋」をやる事が夢だと語っていた。

私はすかさず「三田支店をさせて下さい!」と志願した。

なぜ、「たき火」がこんなにも私の心を引きつけるのか?

恐らく「薪」に自分の人生を見ているのかもしれない!

まだ、燃えていない!完全燃焼したい!たき火のように誰かにぬくもりを与えるような存在になりたい!

一人で燃える事はできない!他の薪と重なり合う事が必要!

私は誰と重なり合って燃えるのだろうか?

一緒に燃える仲間が必要だ!

そして、最後は何も残さず完全な灰になる!

これが私の「自分らしい人生」としての願いだ!

誰と生きるのか?(これからの10年)

昨日は、あるイベント(ワークショップ)でこの10年間を振り返り、これからの10年に思いを馳せる時を持った。

約4時間の出来事だった。

そして、この10年間に本当に色んなことがあったことを思い出した。私の場合、天国と地獄を見た様な10年であったことを認識できた。

そこから「その経験から何を学びましたか?」「これからの10年をどのようにしたいか?」この問いに答える形で、一つの答えが出て来た。

これからは、「何かを達成する」、「何かを成し遂げる」という事より、何をするにしても「誰とやるのか!」「誰と生きるのか!」を大切にしてゆきたい。

これが、これからの10年に向けてのポイントだ。

地の塩として生きたい!

いよいよ明日は、PTA総会だ。これで一応正式に会長としてのお役御免になる。

昨晩は、連合PTAの最後の会議、こちらも一応これでお役御免となった。

昨年の今頃は、人生の中で最も大胆な決断をした頃である。(前職を退職したこと)

それから早くも1年が過ぎようとしている。

あまりにも多くの事があって私の記憶装置に治まらないほどである。

そんな中で、PTA活動を通して新しい出会いが沢山あった。そして、その出会いの中で、これからの人生で取り組むべき課題が沢山見えて来た。

私が愛読する聖書には、人間は「地の塩、世の光」として生きるものとされている。

塩は、とけ込む対象の旨味を増す役割があり、同時に腐敗を防ぐ役割がある。大好きな肉料理に塩は欠かせない。

この1年間は、十分にとけ込む事は出来なかったように感じている。しかし、今までの住み慣れた世界から飛び出した事によって、何処にとけ込んでいけば良いのかは見せられたように感じている。

これからの新しい年度は、塩としてとけ込んで人々の旨味を増す様な存在でありたい。

自分らしく、地の塩として生きたい!

怒りの感情

怒りの感情は悪いもの!

私は随分長い間そのように理解していた。

怒りの感情をそのままにしておくとあまり良いものは生まれないと思っていた。

もちろん、そのままにしているのは良くないかもしれない。

しかし、怒りの感情さえもありのままに受け止めて、その感情に向き合っていく時、怒りの中にある本当の願いや思いに出会うことが出来る。

そして、その出会いは、自分も知らなかった<自分自身との新たな出会い>となる事がある。

怒って罪を犯すような事は避ける必要がある。

でも、怒る事を止めてしまって1つの枠の中に治まってしまう自分にはなりたくない!

そんな人生はつまらない!

自分も含めて、評論家、瞑想家、何も行動しないで「ああでもない?こうでもない?」という人が増えて来ているように思えてならない!

もっと怒れ、もっと不満を持て、人生はこんなもんじゃない!と叫べ!

今日は、一人の怒れる友がそんな事を教えてくれた!怒り、憂いる友に祝福あれ!